考えることをやめていた、また考えることを始めた。

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2016年7月、わたしはオーストラリアから日本へ、長期の一時帰国をしに戻ってきていた。オーストラリアの僻地で面白い仲間に囲まれながら働き、笑って、エナジーチャージされたわたしは新しい目標に向かうために誰とも会わずただひたすら部屋にこもって作業をしていた。
 
"楽しい"がなかった生活だったけど、目標があった。その目標に向かうためにただ黙々と作業をした。
 
ある朝、目が覚め立ち上がろうとした時に起こった目が回る感覚と吐き気。
何がどうなったのかわけも分からず、床に倒れていた。体調を崩したのだ。
めまい症になり、目が充血するようになって体調不良が続いていった。
 
看護実習のとき、看護師として働いていた時、みた光景を思い出した。
心臓発作で運ばれてきた人、脳梗塞に、突然訪れた事故で脊髄損傷してしまい胸から下を自分で動かすことが出来なくなってしまった20代の青年に末期がんの30代の女性。
 
改めて健康について思った。
時間があっても、お金があっても健康に問題があるなら何になるんだろう
 
めまい症になってからは体調が戻るまで少しの間、作業をしないことに決めた。
それでも体調は思うように回復しなかった。作業が進まない、自暴自棄になっていく自分。
 
何かが胸の中でくすぶっていく気がした。
あれ、わたし本当はどう生きたかったんだっけ。
 
 

考えるをやめた。

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部屋にいても何も変わらないな、動いても、動かなくても、しんどい時はしんどいのだ。それなら休息を兼ねて何かしてみようと、はじめたのがヨガ。
 
めまい症が治らないままわたしは横浜へ移り住んだ。
 
4ヶ月近くの横浜滞在、働くことは一切しなかった。ただヨガだけ。
久しぶりに人と触れ合う時間ができたのは良かった。
 
体調を崩す前から生きるについて考えてきた、横浜に来てからもずっと考えていた。
 
ヨガをする以外は本をたくさん読んだり、映画でも観ようと考えていた。
本をひらいた、映画を観てみた、なんでだろ、すきだった読書・映画観賞が楽しめなくなった。
 
何をしても、何も入ってこない。
 
すきがわからない、楽しいがわからない、生きるがわからない。
なんだか途方にくれたようでいて、ただそこに存在していた。
 
ヨガの哲学を勉強する時間、生きるを見つめた。わたしの中の答えはみつからなかった。
それでも、横浜滞在期間にはっきりと強く、何度も思ったことがあった。
 
”わたしは死ぬ”
 
人の命は無限ではない、限りがあるってことではなくて。
 
わたしがどういうスタンスで生きていようと、悲しさに溺れて生きようと、喜びに溢れて生きようと、怒りにとらわれて生きようと、すごい肩書きを持とうと、お金持ちになろうと、何であろうと、わたしはいつか死ぬってこと。
生きるとはどういう意味をなすのか考えていようと、考えていなくとも、いつか終わりがくるってこと。
 
人は自分が重きを置きたい価値観という色をつけたフィルター越しに物事を観る。そしてそこに感情というフィルターをつけ加えて、ただそこに在る物事を個人個人で見たいように見て、感じて考えて解釈すると思っている。わたしの今ここに書いてることだってそうだ。
 
この世界に絶対的なものはない、それならば生き方に絶対的な正解はない。あるのは社会・個人の中で変化しながらも一つの価値観として流れている「常識」そして感情。どちらも変化する流動的なものだ。
 
人も物もそこにただ在るだけ、存在に意味を見出して、感情を乗せて色をつける。人と人が関わって感情と思考が重なって、影響しあって色が深まる。人の数だけ色が深まるんだと思った。
 
人の思考はどこまで広がっていくのかな、わたしの感情はどこまで深まっていくのかな、なんだか考えることに疲れた。
 
疲れて、考えることをやめたわたしがいた。
 
 

心の赴くままに。

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数ヶ月経った、あれからタイに行って、インドに行って、今は千葉の金谷に滞在している。
わたしはここで少しずつ考えることを始めだしてる。
去年から何度も心に出てきた”わたしは何者であろうとも死ぬ”は変わらずにある。
でも最近そこからわたしはどこかに向かおうとしているみたいだ。
 
心が楽しいを追って、心が心地いいを確認しながら。