誰かの「常識」で人生の選択を決める必要はない。
こんにちは、少し前までオーストラリアで生活していたアヤです(@blueeb1uee)。
小中高・大学生そして大人になって今まで何回「それってふつうだよ」「それは当たり前」「それは常識だから」と言う言葉を聞いてきたでしょうか?
この記事では、「仕事を辞めたい」「追いかけたい夢がある」「叶えたいライフスタイルがある」そんな思いを抱えているけど周りの目や評価を気にしてなんだか一歩踏み出せない人に向けて「あなたの大切な人生を誰かの”常識”に合わせて生きる必要はない」と伝えたい。
■目次
- あの人が思うふつう・常識の世界で生きるいきぐるしさ
- バックグラウンドの違う人たちと話して思った、「誰かのふつうや常識は真理ではない」
- どこで生きようと自分の中の譲れない基準や価値観に目を向けよう、それはきっとあなたの幸せへ続いている
あの人が思うふつう・常識の世界で生きるいきぐるしさ
「〜するのは常識でしょう」、きっとほとんどの人が言われてきたと思うフレーズ。
わたしはこの言葉を何度となく聞くたび、その人たちが作る「常識の世界」や自らはまってしまった「常識」という罠から外れてしまうことが「異常」で「おかしい」ことなのかなと考えるようになった。
そしてその「ふつう」の選択肢からなる世界が絶対的なものであるかのようで、なんだか生きぐるしさを感じていた。
小学生のころ夕日の沈む公園で親子ブランコに乗りながら将来を考えた時、ふと人間は四角いボックスのボードゲームみたいな場所にいるんだと思ったことがある。
人生ゲームの一マスにこれから歩む人生が記されているみたいに、目に見えない何かが大きなサイコロを振ってでための数だけ私たち人間はマスを進んで生きていく、そんなイメージが湧いたことを今も鮮明に覚えている。
マスを進むごとに小中高・大学を卒業、ドロップアウトしたり会社に入ったり結婚して家庭を作ったり。
それ以上の選択肢はなくて、そこに記されているだけの人生ゲーム。
小学生の頃ですらそんな将来を想像してしまうほど、わたしたちの周りでは生きぐるしいと感じてしまう「生き方の常識・ふつう」で溢れているのかもしれない。
バックグラウンドの違う人たちと話して思った、「誰かのふつうや常識は真理ではない」
よく考えてみると「ふつう」や「常識」って真理なわけではないことに気づく。気づくと言っているわたしのこの考えさえ真理ではない。
「ふつう」も「常識」も時代ごとに変化する、絶対正しい事実ではないとわたしは思っている。だから大多数の人間が共感する「思い」や「考え」も真理であるかと考えるとそうではない。
国ごとにそれぞれ似た考え方であっても、よくよく聞いてみると個人が一人ひとり大切に思ってること望んでいるライフスタイルが違う。
どこで生きようと自分の中の譲れない基準や価値観に目を向けよう、それはきっとあなたの幸せへ続いている